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宇佐見英治著、みすず書房。本日、電車の中にてほぼ読了。購入したのは『ガウディの伝言』より遙か以前なのだが、気分で読む順番が前後してしまった。
内容は三部構成。第一部は主に著者のフランス滞在時、時に親友矢内原も交えたジャコメッティとの交流の様子を書いたものを、第三部は主に矢内原の死後に書かれた回想録のようなものを集め、間に第二部として著者と矢内原との対談を挟んでいる。 ―― アルベルト・ジャコメッティと矢内原伊作。 滅法個人的な事に起因するのだが、この二人は・・・と言うか、この二人の『関係』は、自分にとって至極特別。 だからこそ、一方の矢内原と曰く『不気味な』(程に深い)友人関係にあり、それをもってジャコメッティからも殆ど絶対の友情と深い信頼とを勝ち得ていたというこの著者の視点から、改めてそれぞれを見てみるのも面白かろうと思って購入、読み始めてみたのだが・・・いやはや、参った。 内容は兎も角。どうやらこの著者の文章と自分、余り相性が芳しくなかったらしい。 独特のリズムのようなものが感じられるこの著者の、流麗で一見深みのありそうな(いや、実際あるとは思うのだが)言葉の羅列は、仏文学者かつ詩人との肩書きに如何にも相応しく、見る人が見れば確かに深い感動を呼び起す力を秘めているのだろう。 が。生意気を言うようだが、自分にとっては何かがもの足りず。目ではひたすら字面を追いつつも、それらの深部までうまく踏み込めぬまま徒に頁を繰る感覚は、まるで瑕ひとつ無く磨かれた球体の表面をさらりと撫でるが如く・・・無論そこに映し出されたハズの世界も、捉えようとする傍から消失、行方を見失ってしまう。 一方。数年来の愛読書である哲学者矢内原の『ジャコメッティ』、宇佐見に比すればやや無骨に過ぎるくらいの彼の文章は何故かとても親しみやすく、ほんの数行・・・いや、初めの一行に触れた瞬間から、すんなりと行間に浸透していくことが出来るのだ。 それでも。第一部もそろそろ読み終えようかという辺りで下記の文章に出逢った時は、魂が震えるほどの感動を呼び起こされた。特に、太字で示す一文には不思議なデジャヴを・・・驚きと共に、遠い昔、何処かで確かに出逢っていたかのような懐かしさを覚えたのである。 流浪や漂泊は、もしそれが中心をめざさなければ、何ものにも達せず、何ものをも築かない。ただ中心へのたえざる集中と挫折を恐れぬ反復のみが、真の創造の淵に彼らをみちびく。大切なことは事実の周辺をへめぐることではない。つねに中心へとおのれを向けかえることだ。他のものにもまして芸術家や詩人にとって、知性とは目に見える世界の中心がどの方向にあるかを感知する能力である。 真の芸術家や詩人は成ろうとして成れるものではない。天賦の才と言えば聞こえは良いが、実の処は紙一重・・・到底他のものには成り得ないほど、如何しようもなく生まれつくものだ。 常々そう思っていた自分にとって、上の一文はまさに我が意を得たりとの思いもあり、また一方で真に『見る』目を持つ者ならば、挫折の二文字など脳裏に浮かぶべくも無く、彼の目に『見えてくる』世界の中心へ向かって、ただひたすら己の道を歩むのに違いない・・・とも思うのだ。 そう。ジャコメッティが、セザンヌが、若き日のランボーがそうであったように。 繰り返しになるが・・・最後にもうひとつ、本文中で心に残った箇所をここに記しておく。 大切なのは、創造に仕えること、仕事をとおして生成の鼓動をききとり、世界と一体になることである。 2006年 12月 06日
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ヤバい・・・急に忙しくなってきた(ぼそっ)。
今日は久々に終電帰りになりそう。 あ。コレって、この日記で初めての『ひとこと』記事かも。 漸く、↑看板に偽りが無くなった。目出度い(笑。 2006年 12月 04日
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地上の錦に、水面の錦。 触れられるモノと、触れられぬもの。 見えるものを見えるがままに撮るというのは、口で言う程易くはない。 この風景・・・水中の錦には如何見えているのだろうか。 * More: 記憶を辿る糸はクモの糸より細いのデス。。。 |
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