ひびのことのは。

misady.exblog.jp
Top
カテゴリ:read( 12 )
|
|
2006年 12月 08日 |
宇佐見英治著、みすず書房。本日、電車の中にてほぼ読了。購入したのは『ガウディの伝言』より遙か以前なのだが、気分で読む順番が前後してしまった。
内容は三部構成。第一部は主に著者のフランス滞在時、時に親友矢内原も交えたジャコメッティとの交流の様子を書いたものを、第三部は主に矢内原の死後に書かれた回想録のようなものを集め、間に第二部として著者と矢内原との対談を挟んでいる。


―― アルベルト・ジャコメッティと矢内原伊作。
滅法個人的な事に起因するのだが、この二人は・・・と言うか、この二人の『関係』は、自分にとって至極特別。
だからこそ、一方の矢内原と曰く『不気味な』(程に深い)友人関係にあり、それをもってジャコメッティからも殆ど絶対の友情と深い信頼とを勝ち得ていたというこの著者の視点から、改めてそれぞれを見てみるのも面白かろうと思って購入、読み始めてみたのだが・・・いやはや、参った。
内容は兎も角。どうやらこの著者の文章と自分、余り相性が芳しくなかったらしい。

独特のリズムのようなものが感じられるこの著者の、流麗で一見深みのありそうな(いや、実際あるとは思うのだが)言葉の羅列は、仏文学者かつ詩人との肩書きに如何にも相応しく、見る人が見れば確かに深い感動を呼び起す力を秘めているのだろう。
が。生意気を言うようだが、自分にとっては何かがもの足りず。目ではひたすら字面を追いつつも、それらの深部までうまく踏み込めぬまま徒に頁を繰る感覚は、まるで瑕ひとつ無く磨かれた球体の表面をさらりと撫でるが如く・・・無論そこに映し出されたハズの世界も、捉えようとする傍から消失、行方を見失ってしまう。
一方。数年来の愛読書である哲学者矢内原の『ジャコメッティ』、宇佐見に比すればやや無骨に過ぎるくらいの彼の文章は何故かとても親しみやすく、ほんの数行・・・いや、初めの一行に触れた瞬間から、すんなりと行間に浸透していくことが出来るのだ。

それでも。第一部もそろそろ読み終えようかという辺りで下記の文章に出逢った時は、魂が震えるほどの感動を呼び起こされた。特に、太字で示す一文には不思議なデジャヴを・・・驚きと共に、遠い昔、何処かで確かに出逢っていたかのような懐かしさを覚えたのである。
流浪や漂泊は、もしそれが中心をめざさなければ、何ものにも達せず、何ものをも築かない。ただ中心へのたえざる集中と挫折を恐れぬ反復のみが、真の創造の淵に彼らをみちびく。大切なことは事実の周辺をへめぐることではない。つねに中心へとおのれを向けかえることだ。他のものにもまして芸術家や詩人にとって、知性とは目に見える世界の中心がどの方向にあるかを感知する能力である。

真の芸術家や詩人は成ろうとして成れるものではない。天賦の才と言えば聞こえは良いが、実の処は紙一重・・・到底他のものには成り得ないほど、如何しようもなく生まれつくものだ。
常々そう思っていた自分にとって、上の一文はまさに我が意を得たりとの思いもあり、また一方で真に『見る』目を持つ者ならば、挫折の二文字など脳裏に浮かぶべくも無く、彼の目に『見えてくる』世界の中心へ向かって、ただひたすら己の道を歩むのに違いない・・・とも思うのだ。
そう。ジャコメッティが、セザンヌが、若き日のランボーがそうであったように。

繰り返しになるが・・・最後にもうひとつ、本文中で心に残った箇所をここに記しておく。
大切なのは、創造に仕えること、仕事をとおして生成の鼓動をききとり、世界と一体になることである。
大切なのは人間であり、愛であり、中心を目指す方向、極限を生きつらぬくことである。

[PR]
by misa_diary | 2006-12-08 19:42 | read |
2006年 09月 27日 |
未だ全体の三分の一程しか読んではいないのだが、この本については兎に角今の今、一言だけでも感じたことを書き留めておきたくて書いている。
それにしても・・・隔日徹夜勤務中につき、二日に一度の往復通勤電車内でしか読めないのが返す返すも口惜しい。小説ではないのに、続きが気になって仕方ない本に出会ったのは実に久しぶりなのである。


この本、著者はかの有名なサグラダ・ファミリア(聖家族教会@バルセロナ)の専任彫刻家、外尾悦郎氏。確か一時コーヒーのCMに出ていらしたように記憶しているので、ガウディに興味が無くともご存知の方は多いのではないかと思う。
全体を読み通していないのでこれ以上詳しくは言えないが、この本には彼が渡西以来ほぼ毎日休み無く、サグラダ・ファミリアを始めとする作品群と面々対して徐々に読み解いていった、史上稀に見る天才建築家ガウディからのメッセージが惜しげもなく開示されている。
その語り口は非常に柔らかく、内容は実に鮮烈。ページを繰る毎に、思わず感動のため息が洩れるほど。
そして何故、以前自分自身が実際にサグラダ・ファミリアを前にした瞬間、まるで雷に打たれたようにその場から一歩も動けなくなったのかが、読み進むうちにハッキリと分かってきたのだ。

学生であったその当時、右も左も分からぬ子どもでしかなかった自分にとって、何故この聖堂が、あるいはガウディの建築物だけがそこまで特別に思えたのか。
実に不思議でならなかったその謎が、この本のページを繰る毎にするすると解けていく様は、恰も深い闇の底に一条の光の射す如く・・・長年空虚であった身の内の奥処に新鮮な空気が送り込まれ、目覚めの時を待ち続けていた何ものかがそこで初めて息を吹き返したかのような、少々大袈裟に言ってしまえば覚醒の驚きにも値する。

例えば。彼が弟子たちに残した重要な言葉のひとつに、こんなものがあると言う。
『人間は何も創造しない。ただ、発見するだけである。新しい作品のために自然の秩序を求める建築家は、神の創造に寄与する。故に独創とは、創造の起源に還ることである』
さらに、この言葉でふと思い出したのが、思想家G・ショーレムのこの言葉。
『創造とは、絶対者から何もかも離れたあと絶対者に戻る過程である』
神や絶対者という言葉に馴染みのない我々には、純粋に自然と人間との関係と言った方が分かり易いかも知れないが(と、この著者も言っている)・・・そう、今後どれ程に目覚ましく科学が発展を遂げようと、どれ程艶やかに文化の華が咲き誇ろうと。人間がイチから創り出せるモノなど、ひとつとして無いのだ。
それでいて、我々の最も身近にあってしかも最も近づき得ぬ存在の根源に息づく完全性という名の美は、時や場に応じて様々にその姿を変えながらも、目に見え肌に触れられるあらゆるものの内に密やかに隠されており・・・一瞬でも垣間見た者には、その後の人生を圧倒的に左右してしまう程に強烈な、神秘の薫りを残していく。
実の処、何処から来て何処へ還るのか、何も分からぬままにただ現世の波間を漂うだけの根無し草(デラシネ)だった己自身にとっても、これらの『言葉』との出逢いは実に鮮烈な驚きであり、霹靂であり、人生を左右する転換点でもあったのだから。


・・・さて。
一言だけでもと言いながら、まるで熱に浮かされたように長々と書いてきてしまったが・・・最後にまた、長い一言を(笑。

偉大なる書物も、偉大なる建築物も・・・無論、偉大なる人間も。読み解くほどにその深みは計り知れず、見るものを惹きつけてやまない。真の魅力とは、実はそういうことなのだな、とも思う。
また、この本のページを捲る度、ガウディに出逢えた著者も、その著者を通してガウディとあらためて出逢うことの出来た自分も。
本当に幸せ者だと、心の底から思うのである。


 ~ サグラダ・ファミリアについて・・・詳しくはこちらをご覧ください。 ~
[PR]
by misa_diary | 2006-09-27 00:00 | read |
2006年 08月 01日 |
平野啓一郎著、文明批評エッセイ集。現在、全49編中の20編程を読了。

この著者、芥川賞を受賞した小説家であるらしいのだが、年齢が若いワリに文体が矢鱈と古めかしく、本人曰く『エッセイということで砕けたものとなった』はずの本書でさえ、殊に最初の方はこういった文体に慣れない者にとって必ずしも読み易いものではない(と、思う)。

にも、かかわらず。こう言っては甚だ失礼かも知れないが、変わり者の思考というものは矢張りある程度同じ道筋を辿るものであるらしく・・・頭脳のレベルは比較にならずとも、変人の端くれではあるだろう自分、読んでいて思わずニヤリと(会心の?)笑みを浮かべることもしばしば。
題材は多岐に亘り、我々が現代文明の中で実際に直面している様々な問題を著者自身の向き合う日常から切り取り、更に掘り下げていく過程が中々に興味深い。
その上、一編が長いものでも5ページ程度と、通勤時間を読書に充てている者にとってはさらりと数編読めてしまう量であるのも有難いところ。

内容には無論、読む側で賛否両論あるのだろうが・・・少なくとも自分にとっては、読んでいて何故か楽しくなる一冊であることは間違いないのである。
[PR]
by misa_diary | 2006-08-01 22:20 | read |
2006年 06月 27日 |
某Amazonにて、今の処4巻ほど出ているらしいが取り敢えず1巻のみ購入。
購入理由はごく最近、写真仲間のブログにてカッパドキアやイスタンブールの写真を拝見、急激にトルコの脳内旅先候補ランキング(?)が上がった為である。

漫画と言うよりも、描線の柔らかいイラストとページの過半を占める活字、といった体裁で綴られるこの旅行記、成程ウワサに違わず面白い。湯船の中で読んでいて思わず、狭い風呂場に響き渡るほどの大声で笑ってしまったほどである。
第1巻は、今はトルコ人の夫と共に現地で暮らすという著者の、初期のトルコ訪問と語学学校への留学(今から10年以上も前のこと)におけるエピソードが主。その為、記述内容には実際との細かな相違もある、と後書きにあるのだが・・・それにしても、よくぞここまで旅先での出来事を覚えていて、しかも面白可笑しく描けるものだと、ほとほと感心してしまった。

特に、トルコの人々の性格・生活習慣におけるエピソードはとても興味深い。
本文中には時折文章のみのコラムも挟まれるのだが、中でも『トルコ式おつきあい』というコラムには、成程!と目からウロコが落ちる思いがした。

『トルコ人は人好きでもてなし好き。人づきあいを仕事よりも重んじるが、中でも「お客様」は別格。
わざわざ自分のむさ苦しい家に足を運んでくださるのである。自分の家に「生命」を持ってきてくださるのである。
「お客様」イコール「神様からのお客様」であり、その「お客様」を心の限りを尽くしてもてなすことは、彼らにとって無上の喜びであり、誇りなのである。』

そんなトルコもこのご時勢、都市部では観光客を狙ったスリ・盗難も多発しているとは聞くものの、基本的にトルコの人々が旅行者に対して非常に親切なのは、そういった見知らぬ他者、他の「生命」に対する「もてなし」の習慣が生まれたときから身についているからなのだろう。
元々の宗教的な違いがあるとは言え、昨今は他力本願をはき違えたような『~してもらう』ことのみを求めがちな我々日本人にとって、このような他国の精神文化に触れることは今、とても大事なことなのではないかと思う。


・・・ま、そんな肩肘張って難しいことを考えずとも。この本、とにかく面白い。
元々トルコに興味のある無しに関わらず、読めばトルコに行ってみたくなること請け合いなのである。
[PR]
by misa_diary | 2006-06-27 22:56 | read |
2006年 06月 23日 |
ご近所の本屋で文庫版を購入、現在上巻の中ほどにさしかかったところ。
ダン・ブラウン著、『ダ・ヴィンチ・コード』と同じく宗教象徴学専門の大学教授ロバート・ラングドンを主人公とする、これがシリーズの第一作目であるらしい。

今の『ダ・ヴィンチ・コード』フィーバーからすると信じ難いようではあるが、ネット上のどこかで目にした記事によれば、出版された当初はこの本、あまり売れなかったとのこと。・・・成程、提示される謎やテーマ自体は興味深いにしても、舞台が世界トップの科学シンクタンク内ということもあってか、登場人物達によって披露される薀蓄内容が実に細かく多岐にわたっている上、『ダ・ヴィンチ・コード』以上に場面展開が激しいので、それもむべなるかな、であろう。
とにかく、それらの内容にある程度興味がなければ、読みづらいことこの上ないのである。

ただ。この小説の翻訳者、使う言葉が的確で美しく、流れもあって非常に好み。
それだけで次のページを開くのが楽しみになるのだから、翻訳小説というのは訳者に負うところも大きいのだなぁとあらためて思ったのだった。
[PR]
by misa_diary | 2006-06-23 20:48 | read |
2006年 06月 21日 |
昨日読了。遥か昔に一度読んだことがあるとは言え、あまりにも速くて自分でも驚いた。読み始めてから終わるまでに、丸二日と経っていないのではあるまいか。
それにしても、この話がこれまで・・・と言うか今も、この国に於いてはハッキリ子供向けとして扱われていることに、まず驚きを禁じ得ない。日本という国の出版界では軒並み、ファンタジーというものは子供向けのお伽話でしかない、と決め付けているのだろうか。

確かに、舞台は全くの仮想世界であり、主人公は魔法使いであり、筋書きは波乱万丈の冒険物語である。
作者によって構築された『アースシー』という名の舞台は非常に魅力的で、登場人物たちの性質もどこかイソップやグリムなどの童話を彷彿とさせるものが多く、ある程度物語を読むことに慣れた子どもであれば年齢に関わらず、胸を高鳴らせながらページを捲り続けるであろうことは想像に難くない。
にもかかわらず、この話は決して子供向けではあり得ない。いや、大人向けだとて、一般的な娯楽作と同列に扱われるのは不本意の極みであろう。
何故なら。これは言わば『羊の皮を被った狼』、ファンタジーの筋書きを借りたというだけの、バリバリの哲学書だからである。

とは言え、まだ1巻を読んだだけなので、残りを読んだ時点でどう感じるかはこれまた分からないのだが・・・少なくとも、作者が出版以来映画化を完全拒否し続けたというのも無理はない、そう思える程に深みのある物語であることは確かである。
それが遂にスタジオジブリで映画化され、もう来月には公開されると言う。作者自身が宮崎駿なら、と進んでゴーサインを出したというのだが・・・話は第3巻『さいはての島へ』がメインになるというので、なるほどと納得。この1巻では話が難しすぎて、映像化はやはり困難なのだろう。

最後に。ネットで少々『ゲド戦記』について調べているうちに見つけた、作者ル=グウィンの実に印象的な言葉をここに記しておく。

 「人間は昼の光の中で生きていると思いがちだが、世界の半分は常に闇の中にあり、
  そしてファンタジーは詩と同様、夜の言葉を語るもの」

1巻の最後で、自己の影との一体化を成し遂げた主人公ゲド。
その後の彼が何を想い、どう動くようになるのか・・・手元にないのですぐには難しいが、2、3巻と先を読み進めていくのが今から非常に楽しみなのである。
[PR]
by misa_diary | 2006-06-21 22:48 | read |
2006年 06月 19日 |
本日、快晴。少々淡いが、雲ひとつない綺麗な青空である。
あまりに気持ちの良い晴れっぷりに、昨日の頭痛腹痛もどこへやら。恐らくはこの空好きのお調子者、一面の青空を目にした途端、脳内に大量のエンドルフィンが放出され、それが身体の方にもうまい具合に作用したものと見える。

その証拠に、と言っては何だが。もう6月も下旬にさしかかろうというのに、仕事の方は相変わらずいつ終わるとも知れず、隔日徹夜状態も少なくとも月末までは続くであろうと思われる・・・にもかかわらず、今この瞬間は、身の内に心配事も無ければ、不安や恐れなどの否定的な感情とて、何一つ感じられないのだ。

何故と言って、理由は特に何も思い当たらない。
強いて言えば、今日は晴れだった。ただそれだけなのであるからして、『病は気から』というのも、どうやら当の本人が単純であればある程的を射ているものかも知れぬ、などと一人合点したのであった。



ところで。昨日読了した『不実な美女か貞淑な醜女か』について、ここで一言書いておく。
著者は米原万里氏。ごく最近鬼籍に入られた、日露同時通訳者である。

読み始めた当初から、この著者は頭の回転が速くて機転の利く、真の意味で頭の良い方だなという印象だったのだが、読了してその感は一層強まったように思う。
ホンの端くれとは言え、同じく自国語と外国語との橋渡しを生業としている自分、本の中で語られるエピソードの数々にはそうそう!といたく共感できる部分も多かったし、現場における失敗談には我が事のように背筋が冷えたりもしたのだが・・・この方のように優れた記憶力も無ければ、咄嗟の機転やありとあらゆる分野への飽くなき探究心というものも持ち合わせていない自分には、多少の翻訳は出来ても通訳、まして同時通訳などはたとえ天地が引っくり返っても務まりそうもない、と痛感。
文中でも彼女をして『狸と狢以上』と言わしめているように、通訳と翻訳は一見ごく似たもののようでいて、絶対に違う能力を必要とするのだ。

それでいて、瞬く間に目の前を過ぎ去っていくかのような『話し言葉』というカタチ、その現象の背後から様々な国の文化的相違や物事、人間感情の細部に至るまでを客観的に捉えんとする彼女の、ある意味冷徹なまでの明晰さの裏側には、自国人も他国人も同じ『人類』として底の底まで包み込むような、あたたかな視線がある。また、この視線無くして真の同時通訳は成らず、という彼女の強い想いもひしひしと感じられ・・・何やら胸が熱くなった。
そう、あちらを立てればこちらが立たず、なのではない。いずれをも同時に成り立たしめる普遍性を瞬間ごとに確認する、『通訳者とは、コミュニケーションという名の神に仕える敬虔な使徒』。
この本の結びにあって、これほど相応しい言葉はないのではないかと思う。

思わず感想が長くなった。
ついに生きて動く彼女を目にすることは無かったが、これからゆっくりと、残る未読の著書を楽しませてもらおうと思っている。

どうぞ安らかに。
[PR]
by misa_diary | 2006-06-19 21:58 | read |
2006年 06月 06日 |
『ブレイブ・ストーリー』下巻、昨晩読了。最後は一気に読み終えてしまった。
途中で止まらないのが分かっていながら布団の中で読み始めるのは、昔からの悪い癖なのだ。

中巻を読み終えた時点での感想は前回の記事に述べた通りで、その後は最後の山場も結末も、これといって意外性はなかった。
が、やはり宮部作品。最後まで涙ナシに読み通すことは出来ず。読み終えた後も、暫く胸が痛かった。
いつの世も、終の別れは悲しく辛いものなのである。

また、エピローグが多少長過ぎたきらいはあるものの、それ故に何一つ疑問の残らない・・・いや、言わば最後にたったひとつ、未来への希望を残したパンドラの箱的結末は、蓋し見事と言うべきだろう。

そう、未来への希望・・・この人の世を生きるのに無くてはならない、たったひとつのもの。
それこそが、『生きる勇気』そのものなのかも知れない。

この物語を読み終えた今は、そんな風にも思うのである。
[PR]
by misa_diary | 2006-06-06 22:05 | read |
2006年 06月 02日 |
本日、湯船の中で『ブレイブ・ストーリー』中巻を読了。
この話、結構長いようで・・・上・中・下巻とも450ページを優に超える厚さなのだが、何だかあっという間に読み終わりそうな気がする。
つまりは、それだけ面白いってことなのだ。


『世界を変える扉が開く。
 これは、ボクの勇気のハナシ。』

本の帯には、来月初旬に公開されるアニメ映画の宣伝文句として、この言葉が印刷されている。
・・・成程、確かにそうだ、と思った。
まだ、これからの展開次第では部分的にいろいろと出てくるのかも知れないが、大筋では多分、そうなのだろうと納得する。
と言うのも、中巻を読んでいる間にナゼか、こんな言葉がしきりと思い出されてならなかったからである。
勇気がなければ 正直にはなれない
勇気がなければ 愛することはできない
勇気がなければ 信頼はできない
勇気がなければ 真実を問うことはできない

この物語の主人公である少年は、自分に降りかかった悪夢のような運命を変えるため、辿り着いた旅人の願いをひとつだけ叶える女神のいるという運命の塔を目指して異世界に旅立つ。
実はこの異世界、見る者(つまりは少年)の内面そのままの映し絵であるというのだが、旅の途中で得た様々な経験を通してその事に深く思い至った彼は、ある瞬間にふと気づくのだ。
たとえ念願叶って今の悪夢のような状態が起こる以前に戻ろうと、また同じような局面に立たされたならどうするのか。過去に戻ることに意味などないのだ。出来事は消せても、悲しみや苦しみを感じる自分の心は消せやしないのだから。
そう。結局は、今の自分が変わらなければ全ては同じことなのだ、と。

運命は自らの手で変えられる、運命は切り開くものだ・・・などと巷ではよく言われるが、それは来たるべき出来事を無かったことにしたり、物事を自分の思い通りに運ばせるといった単純なことでは決してない。
運命を変えるとは、実は己自身の内面の変革を意味するのだ。
真っ直ぐに、自己の不完全性をありのままに見つめる純一な心を育てること。それには確かに勇気が必要で、この勇気は心の純粋さを失った魂には保ち続けることはおろか、一瞬でも持つ事すら困難だろう。
だからこそ、この物語の主人公は年端も行かぬ少年なのだろうし、共に旅する仲間達はヒトの大人ではなく異形の姿をした子どもや若者なのだろうと思う。


・・・などと、想いの巡るままにつらつらと書いてしまったが、結局のところ。
『生きる勇気』を思い出させてくれた、この物語の行方が楽しみだ、と。
言いたかったのはただ、それだけなのである。
[PR]
by misa_diary | 2006-06-02 07:18 | read |
2006年 05月 29日 |
本日、帰りの電車の中で『ブレイブ・ストーリー』上巻を読了。
これからのんびり湯船に浸かりつつ、中巻に取り掛かる予定。

本が面白いと、いつもはシャワーのみで済ませてしまう入浴も、ついたっぷりと時間を取りたくなってしまう。
当然、その分の睡眠時間は減ってしまうワケだが・・・それも全く気にならないのだから仕方あるまい。
『読書バカ』につける薬はないのだ。


唯一の心配と言えば。
急激に襲い来る眠気に太刀打ち出来ず、読みかけの本までも一緒に入浴させてしまわないか、ただそれだけである。
[PR]
by misa_diary | 2006-05-29 01:22 | read |
XML | ATOM

個人情報保護
情報取得について
免責事項
Book Skin by Sun&Moon